今日読むスピリチュアルのアファメーション
このカテゴリーの全70件から30件を掲載しています。1,050件のライブラリーすべては、アプリの中にあります。
- 自分を超えたつながりが、ふと感じられる。
- 日常の中に、ちゃんと意味がある。
- この長い物語の中に、ちゃんと居場所がある。
- 今見えている以上のものに、心はひらいている。
- この瞬間に、確かな不思議がある。
- 見えない何かに、いつも支えられている。
- うまく言えない静けさへ、いつでも還っていける。
- 自分でも全部はわからない何かを、この胸に抱えている。
- 変わらない何かに、静かに守られている。
- どうにもならないものの中で、ふっと息をつける。
- ひとりだと感じる時も、確かに包まれている。
- ありふれた一日の中に、ふと神聖さが見える。
- 疲れている時も、何かが私を押し上げてくれている。
- 夜空の下で、この広さをまるごと感じる。
- 私を支えるものは、思考の外側にもある。
- ことばの先に、根づかせてくれる何かがある。
- 未知の中にも、そっと寄りそうものがある。
- ただ今ここに、こうして在る。
- この瞬間にある不思議に、ちゃんと気づいている。
- 自分より大きな流れに、確かに抱かれている。
- 答えよりも、問いのそばにいていい。
- 言葉にならない方へ、そっと心をひらく。
- 内側はいつも、静かな意味で満ちている。
- この世界に、ちゃんと属している。
- うまく説明できなくても、それを信じていい。
- この世界に、確かに織りこまれている。
- 言葉にできないつながりをふと感じると、その感覚が静けさをくれる。
- この自分には、ふだん思っているよりも深い奥行きがある。
- わかること以上の確かさが、いつもここにある。それでじゅうぶんだ。
- 人として続いてきた大きな営みに属していて、この人生も、その確かな一部だ。
毎日ひとつ、新しいアファメーションを。
Daily Affirm は、毎朝ホーム画面にアファメーションをひとつ届けます。iPhone と Android のウィジェットに、小・中・大のサイズで。無料、アカウント不要、すべてオフラインで使えます。
アファメーションは、そっと寄りそう支えです。セラピーではなく、専門的なケアの代わりになるものでもありません。
下記の解説文は、引用されている研究に直接もとづいて書かれています。執筆したのはアプリの開発者であり、臨床の専門家ではないため、医学的な監修は受けていません。
スピリチュアルなアファメーションには、信じる心が必要なのでしょうか?
神棚のある部屋もあれば、十字架のある部屋もあります。祈りの言葉を持たない部屋も、もちろんあります。このカテゴリーの一行は、そのどの部屋に置いても意味を変えずに馴染むように作られています。「いちばん自分にしっくりくる呼び方で名づけてもいいし、名づけないままでもいい」は、特定の宗教を思い浮かべても、先祖から受け継いだ何かを思い浮かべても、あるいは生きていること自体のふしぎさ以外に思い当たるものがなくても、そのまま成り立つ一行です。
何か自分より大きなものに、ふと引き寄せられる感覚があります。畏れと呼ぶ人もいれば、つながりと呼ぶ人も、神聖と呼ぶ人もいます。名前をつけない人も少なくありません。特定の信仰を持つ人にも、持たない人にも、同じように訪れる感覚です。この一行は、その引力が何を指しているのかを決めつけようとはしません。「いま自分に見えている以上のものにも、心をひらいている」は、分からないことを分からないままにしておくための一行で、無理に答えを差し出すことはありません。
この開かれ方は、一方通行ではありません。特定の信仰を持つ人と、何も持たない人が同じ一行を読んで、まったく違う意味を受け取ることがあります。そのどちらの読み方も、はじめから想定されたものです。「自分より前から続いていて、自分より後にも受け継がれていく何かの一部だ」と言うのに、形而上学は必要ありません。必要なのは、家族と、歴史と、自分がいまどの時間の中にいるかという実感だけです。
この一行がほんとうに主張しているのは、もっと控えめなことです。つながりの感覚に、どんな形であれ名前をつけてみると、心が乱れるよりも、むしろ落ち着くほうへ働きやすい — それだけです。今日はまだそう感じられなくても、一行がまだ響いていないだけのことで、何もおかしくありません。決まった期限までに信じるよう求めるものは、ここには何ひとつありません。
出典:Keltner & Haidt, Approaching awe, a moral, spiritual, and aesthetic emotion (Cognition and Emotion, 2003) · Yaden et al., The varieties of self-transcendent experience (Review of General Psychology, 2017)。
名前をつけずに、そのまま味わう
教義も、修行も、はっきりした考えさえ、このカテゴリーを使うのに必要ありません。必要なのは、ふだんのことがほんの少しだけ大きく感じられる瞬間と、その瞬間のために用意された一行だけです。台所に立って湯気を見ているとき、通勤電車の窓に朝の光が差し込むとき — そんな瞬間に「ありふれたものの中に、その神聖さを見つける」を読みます。予定を組んで待ち構えるようなものではありません。
一行は、自分の感覚と同じくらい名前のないままにしておいて構いません。「言葉にできない形で、自分より大きな何かとつながっている」 — 正直に言えるのがそこまでなら、そこで止まっていい。それ以上を、一行は求めていません。感情ではなく問いが浮かんでくることもあります。そんなときは、答えを急がず、問いをそのままにしておきます。「存在についての問いを、恐れではなく好奇心で抱く」は、この実践のほぼすべてを言い表しています。答えを出して先に進むのではなく、いつもより少しだけ長く、その問いのそばにとどまること。
この手の一行は、説明よりも、静けさとよく合います。散歩、眠りに落ちる前の数分、何かがふと目に留まる窓辺。ホーム画面のウィジェットは、そうした間に一行をそっと置いておくためのもので、成し遂げるべき用事をまたひとつ増やすためのものではありません。
この一行が、そっと届く瞬間
夜空を見上げるとき。あるいは、いつもの視界よりふいに大きく開けた景色に出会うとき。「この広さを、まるごと感じる」が、言葉を探すよりも先に、もう本当になっている — そんな瞬間があります。
洗濯物を取り込んでいるとき。駅までのいつもの道を歩いているとき。ふだんと変わらないはずの作業が、ふいに、それ以上の何かに感じられる瞬間があります。「ありふれた瞬間にも、意味がある」は、そのまたたきのために用意された一行です。
もっと重い瞬間にも、この一行は届きます。この先どうなるのか分からない不安な夜。大切な人を失った悲しみ。検査結果を待つだけの数日。そんなとき「感じられなくても、物事はちゃんと動いていると信じている」は、結末を知らなくても手放さずにいられる何かを差し出します。
愛する人のそばにいる、なんでもないはずの瞬間にも。一緒に食べる夕食。数えきれないほど繋いできた、その手。「愛する人たちや自然とのあいだに感じるつながり、それ自体が神聖さの一つのかたちだ」は、そんな瞬間に、しるしもなく通り過ぎてしまわないための、着地する場所を与えます。