今日読むありのままの体のアファメーション
このカテゴリーの全70件から30件を掲載しています。1,050件のライブラリーすべては、アプリの中にあります。
- この体は今日も精一杯動いている。
- 体を大切にしている。
- この体を優しくいたわる。
- 自分をちゃんといたわっている。
- この体の中で生きている、それだけで意味がある。
- 心地いいと感じる動き方をする。
- 見た目がすべてじゃない。
- この体を友達のように扱う。
- あらゆる喜びを、この体で感じてきた。
- 今日は体を愛さなくていい。
- 気づかなくても、体は働き続ける。
- 体は今日もちゃんと動いてくれている。
- 体がどうであれ、私には価値がある。
- 今のままでじゅうぶんだ。
- 鏡に映るものが、自分のすべてじゃない。
- 体は私のために働いてくれている。
- この体の役割は、見られることより生きることだ。
- 体を粗末にしない。
- 価値は、体の形では決まらない。
- 体を責めないでいられる。
- 今ここに存在している。
- 毎日、体が私を運んでくれる。
- 体に感謝を向けたい。
- 自分に休息を許す。
- 体が私を生かしている。
- 少しずつ、この体を受け入れていく。
- 何年経っても、この体からはまだ学べることがある。
- 気づかれなくても、体は静かなリズムを保っている。
- 見た目より、この体ははるかに多くを抱えている。
- 体と争うのをやめて、一緒にいることを選ぶ。
毎日ひとつ、新しいアファメーションを。
Daily Affirm は、毎朝ホーム画面にアファメーションをひとつ届けます。iPhone と Android のウィジェットに、小・中・大のサイズで。無料、アカウント不要、すべてオフラインで使えます。
アファメーションは、そっと寄りそう支えです。セラピーではなく、専門的なケアの代わりになるものでもありません。
食べることや体重、鏡が映すものが、自分ひとりで抱えられる以上に生活を占領していると感じたら、必要なのはやさしい言葉だけでなく、本当のケアです。お住まいの国の、無料で秘密が守られる相談窓口を探す。このページが何であり、何でないかについては、Daily Affirmについてをご覧ください。
下記の解説文は、引用されている研究に直接もとづいて書かれています。執筆したのはアプリの開発者であり、臨床の専門家ではないため、医学的な監修は受けていません。
ボディイメージのアファメーションは、前向きでなければいけないのでしょうか?
体についての言葉は、たいてい二つの型のどちらかに流れ込みます。責めるか、無理にでも好きになるか。そのどちらにも、ただその体で今日を生きるための余白がありません。ここにある一行が探しているのは、そのあいだの、もっと静かな場所です。「今日は自分の体を愛さなくていい」。それで十分です。目指しているのは称賛ではなく敬意 — 今日どんな気分であっても差し出せる、ごくありふれた敬意のことです。
これはあきらめではありません。称賛と違って、敬意は何でもない一日にもちゃんと残ります。ある実験では、セルフ・コンパッション(自分への思いやり)をほんの数分練習しただけで、女性たちの体への不満が実際にやわらぐことが確かめられました。効果を生んだのは、体が以前よりよく見えると信じ込ませることではなく、自分を厳しく採点する目をやめて、友人に向けるようなまなざしに近づけたことです。「黙って自分を支え続けているものに、当たり前の敬意を払う」という一行が見た目に一言も触れないのは、そのためです。息をし、歩き、傷を治しながら働き続けているこの体に、ねぎらいの言葉ひとつなくても懸命であり続けるものへ向けるのと同じ礼儀を向けてほしい。それだけを頼んでいます。
このカテゴリーが、よくあるボディポジティブの掛け声をあえて避けているのも同じ理由からです。あの手の言葉も、突き詰めれば別の演技を求めてきます。体を愛しなさいという呼びかけは、優しい言い方をした命令にすぎません。「見た目を好きになれなくても、ちゃんと世話はできる」は、求めるものがずっと少なく、返ってくるもののほうが多い一行です。見た目への気持ちが少しも晴れない日でも、食べさせ、休ませ、動かすことはできます。
出典:Albertson, Neff & Dill-Shackleford, Self-compassion and body dissatisfaction in women: a randomized controlled trial of a brief meditation intervention (Mindfulness, 2015) · Neff, Self-compassion: an alternative conceptualization of a healthy attitude toward oneself (Self and Identity, 2003).
この一行を、演技にしないために
その日いちばん無理のない一行を選びます。ある日は「今日のこの体のままで、じゅうぶんだ」に手が届くかもしれません。別の日、正直に言えるのは「今日は自分の体を愛さなくていい」だけかもしれません。そんな日は、迷わずそちらを使います。響きがあたたかいほうが偉いわけではありません。
口にするのは、鏡の前と同じくらい、鏡のない場所でもいいのです。服を選ばず着ているとき、散歩の途中、眠る前に胸に手を当てたとき。鏡と結びついたままだと、話題はいつまでも見た目のことです。ほかの場面と結びつければ、この一行は見られる体ではなく、暮らしているその体についての言葉に変わります。シャワーを浴びながら、食事の前に、寝る前のストレッチのついでに。新しく何かを付け足すのではなく、体がもうしていることに、この言葉を重ねます。「この体を、友達のように大切にする」は、そうした日々の手入れにすんなりなじみます。何もないところから気分を作り出す必要はありません。
感じてもいない前向きさを演じさせる一行なら、迷わずもっと素直な言葉に替えます。「体と仲直りできていなくても、世話はできる」は、明るいほうの言葉がただの嘘になってしまう日のためにあります。
こんな瞬間のための一行です
着替えの途中、服を選ぶより先に体への品定めが始まる瞬間。ここでの一行は、目に映るものに言い返したりしません。ただ、そのあとに何をするかを変えてくれます。
見た目について何か言われたあと。悪気があってもなくても関係ありません。「私の価値は、体の形やサイズ、見た目とは関係ない」は、その一言が間違っていると証明する必要がありません。ただ、その一言に主導権を渡さないだけです。
カメラの前に立つとき、あとでその写真をスクロールして見返すとき。どちらも、自分への採点が厳しくなりやすい瞬間です。「鏡に映るものが、私のすべてではない」は、鏡にも写真にも同じように効きます。どちらも、写真には写らない部分までは測れません。
洗濯物をたたむとき。バスを待つ列に並ぶとき。特別な出来事など何もない、ただの一日に、体についての実況中継が習慣で勝手に流れ出すことがあります。ここにある言葉の多くは、そうした危機のためではなく、この背景の雑音のために書かれています。それをそっと止める方法のひとつが、ホーム画面ウィジェットです。ふと画面に目をやったとき、そこに違う一行が待っています。